Edición Iman エディマン

たまには

すっかり忘年会のシーズンということでもあり、ぼくも今週一週間はすべて忘年会で埋まってしまった。というか、埋まっているから毎日お酒が飲めて、それはうれしいことだ。しかし、一方で年内という区切りで終えておきたいこともあり、終わりつつある一年を終える喜びと、終わらないでほしい一年を惜しむ気持ちとがないまぜとなった不思議な感覚を味わう季節でもある。

先日は、加藤周一さんが亡くなるというニュースにふれ、ぼくとは世代的にもだいぶかけ離れた人の死を悼む感覚と(これはきっと鶴見俊輔さんの『悼詞』という本の誕生と無関係ではないだろう引きずられた感傷)、一方で(恥ずかしながらもう亡くなっていたと思い込んでいた)レヴィ・ストロースの100歳を迎えたニュースを左右の耳からステレオのように聞くという不可思議な感覚も味わった。

とまあ、脈絡もないことが頭の中をこだまするように、この一年も分裂気味に過ごし、そしてまたしばらくはこの分裂状態を保ちつつ生き延びていくことになるだろうと予感している。

自らの「生活」というレベルは、何ら変わることなく、相も変わらぬ低空飛行ということで、知己のある方へのひと通りの挨拶とするにして、世界的な不況の名のもとに行なわれている、短期労働者へのひどい仕打ちには、憤りを覚えている、ということは言明しておきたい。はっきりと。

イメージフォーラムにおいて上映されたブラザース・クエイ監督の『ピアノチューナーズ・アースクエイク』は、原作をビオイ・カサレス『モレルの発明』においたものだが、原作を離れて世界観を打ち立てる力量にはひたすら感心した。

このような映画は一般的には観賞される機会は少なく(それは批評されることが多いという裏返しになるのも奇妙なことなのだが)、この映画を観るということは、おおよそふだんこなしている一般的会話には挿入されることが少ない「エピソード」として、ぼくという存在を規定していく「エレメント」たりうる、も・の・で・あ・っ・た。

さてしかし、過去の自分の構成物たりえたものにであったものに出会い、出くわし、なおも感じる違和感はいかんともしがたく、それを抱え込んだままにまた世界を読み替えていく作業は、これははたして虚しいことなのだろうか。

明らかに酔っているので、これは続くとしておきたいけれど、ぼくの片一方の頭の中には先日、BOOK246にて行なわれた「ローカリティについて」という対談が渦巻いているということは記しておきたい。